愛ある無関心が届くのならば…
耳の怪我に関するニュース、胸が痛みますし、最初に目にした時は血の気が引きました。
ですが今は、「ながせのつぶやき」に書いてくれていた言葉、それ以上もそれ以下もなく、それが全てだと受け止めています。
永瀬廉さん、どこまで行っても思いやりのある心根の温かい人です。
こういう時に「もし私が廉さんの立場だったら」と考えることに意義はないと思いますし、容易く分かったふりをされるのも嫌だろうなと推察できます。
本人に届くはずもない。
そんなことは分かっているけれど、迷いながらも伝えたくて書き記します。
私は聴力に問題があります。幸い、今のところ日常生活に大きな支障はなく過ごせています。
でも、自身の経験上、耳の不調や病気は怖いと強く感じています。
だから「耳の怪我で手術」と知って、他人事には思えませんでした。
語弊なく伝わることを切に願いながら申しますが、決して怪我をしたこと自体が良かったとは思いませんが、怪我や不調に気づいて速やかに対処ができる環境にあって良かった、それが私の率直な感想です。
廉さん自身が一番驚いただろうことは想像に難くないですし、その頭の回転の速さで一瞬にして様々なことが駆け巡っただろうし、怪我自体よりもその後置かれた状況に恐怖や不安を感じたことでしょう。
自分自身のことより、周りにいる沢山の人たちへ目が向いていて心を砕いている。
ブログを読んでいると、その心情の動きが手に取るように感じられます。
そんな中、慎重に丁寧に言葉を選んで、届けてくれた。
その事実に胸が熱くなりました。
大きなニュースになって、あちこちで取り上げられて。
SNSには、愛ある言葉がこれでもかと溢れている。
芸能人の宿命という部分もあるでしょうが、廉さんの人望、人柄による面が大きいと思います。
こんな時に不謹慎だと思いますが、永瀬廉さんの素晴らしさを改めて感じます。
とはいえ。
それがどんなに愛に溢れた優しさでも、純粋な心配だったとしても、「過多」になると背負いきれない。
普段ならいくらでも受け止められた愛も重すぎると、次に立ち上がろうとする時の枷になる。
もしかしたらそういうこともあるのではないかと、老婆心ながら憂慮します。
というわけで、私にできるのはやはり「愛ある無関心」しかないと考えています。
(以前にも「愛ある無関心」について触れたことがあるので、気が向けば過去の記事もご覧ください。)
届かなければ、ただの無関心。
そうだとしても。
大丈夫。
真正面だけでなく、どの方向に身を預けても、どの方向に倒れても、歩を緩めても、立ち止まっても、廉さんの思うままにしたらそれでいい。何よりそれがいい。
それだけがもし何かのきっかけで届くのならば、私は嬉しいです。