映画『ふれる。』の感想

 言葉にしなきゃ伝わらないこともあるし、言葉にしても伝わらないこともある。

触れるから伝わること、触れたから伝わらなかったこと。

繋がりたい気持ち、繋がりを厄介だと感じる気持ち。

微笑みを絶やさず、耐え忍んで。

無表情の下の熱い心根。

相反する心や状況の中で、この涙はどこから来てどこへ行くのか。

手応えの感じられないことも多いけれど、それでも、物理的にも心理的にも、触れられる距離にいるのは心強いこと。

触れることを諦めず、触れようと伸ばされた手を拒まず、いられたらと思います。

心をそのまま掬い取ってくれるような映画でした。

 

 この先は不思議な生き物「ふれる」について、私の抱いた感想です。核心というほどのことを書き綴るわけではありませんが、これら映画を観る方はご留意ください。

 

 

 ふれるのおかげで分かり合えてるのに、お前の考えていることは分からないんだよな。

(細かい言い回しは忘れてしまったのですが)劇中で秋がそんなふうにつぶやきます。

そう。ふれるは過去にも沢山の人を繋いできたのに、その心は誰にも分からない。

島に伝わる神様だとか妖怪だとか言われて。

ふれるは一体何者なのか。何のために存在しているのか。

争いの種になりそうなことは予め取り除いて、清く純真な気持ちを伝え合う架け橋としてのふれるー

 「架け橋」という単語がふとよぎった瞬間、何かがチクッと私を刺しました。

「ふれる」は私の憧れではないのか…もちろん私は神様でもなければ、ふれるのような高い能力もないけれど。組織や集団の中において、私は架け橋や潤滑油でありたいと願っていて、その役割を果たせた時に存在意義を見出すというか、ささやかな自信を持つことができる。

ただそれは、見方を変えると、他者を介することでしか存在意義がないし、一人きりの私が一体何者なのか示せず心許ない。

 

 ふれるのとりもった縁は沢山あって、ふれるがいなくても繋がる縁もある。まっすぐ1本だったはずが、いつしか伸びてたわんで、ほつれて絡れて。

争いの種だと思ったことが一番清いことだったり、純真だと思われたものが争いの種になったり。

紡いだ糸に絡まって、身動きが取れなくなったのは、ふれる自身ではないのか。

 

 なぜ諒や優太に見えなくなった糸が、秋には最後までちゃんと1本1本見えていたのか。

ふれるを一番頼りにしていたのも、信じていたのも秋で、でも同時に、ふれるを介さずに一対一で正面から向き合わなきゃいけないと最も感じていたのも秋。

架け橋としてではない「一人きり」のふれるに向き合ってくれたのも秋。

そしておそらく、ふれるが触れたいと願っていたのも秋。

だからなんですね。

 

 ふれるは憧れであり、化身であり、最後は羨ましくもあり、それこそ心友にしてもらいたくもありました。

小さな小さなふれるに、もしどこかで出逢うことがあれば、ちゃんと気づける人間でありたいし、ふれるにも優しい社会であればいいなと願います。