ショックでした。驚きで息が止まるとはこういうことか。
そして私もショックを受けるんだという事実にまたショックを受けました。気づけばこんなにのめり込んでいるんだなと。
でも同時にその事実が何だか嬉しく誇らしくも感じられました。
どんなことにだって様々な意見があって然るべきです。
とはいえ。
怖さを感じる、目を覆いたくなる言葉が溢れている、言葉が凶器にも暴力にもなる、そんな状況が存在するんだと知ると、何ともやりきれない気持ちです。
「温かく見守ってください」「静かに見守っていただけると幸いです」は、こういう時の常套句のように感じていたけど、実際それが最適で、周りができ得る全てなのかなと感じます。
世間に名前も顔も知られていて、そんな環境に身を置いて礎にして、生業としている人たち。
お芝居でも音楽でも作品でも。何かを創造するために自身の想像力を最大限に使っている方々。
自分自身の意見や感覚とは別のところにある、作品上求められる「もの」のために身も心も尽くして、時には神経をすり減らして。
実際の作品として出来上がった、目に見えて触れて感じられるものは、ほんの一握り。一握りどころか、ほんのひと匙かもしれない。
水面下や過程でどう足掻いてきたか、どんなふうに推し量ったか、どれだけのことを考えて慮って、何を選んで何を捨てたか。
どう魅せたかったのか。そのためにどんな手段を使って、何を発信して、あえて見せずにおいたところがどれほどあるか。
どれだけ思いを巡らせても、同じ経験をしていない私に到底窺い知れるものではありません。
そんな容易に分かったつもりになってもいけないと思います。
愛の反対は無関心。
SNSには愛のあるコメントもたくさんあって、彼らの人徳の為せる業なんだと本当に感服します。
でも。
「愛ある無関心」もあっても良いかなと思います。
関心を無くすではなくて、あえて関心を好奇の目を向けない。
当人が「魅せずにおく」部分は「見ないでおく」。
私は言葉の力を信じたい質ですが…言葉の力を上手く正しく使える自信が、今は全くありません。
愛ある無関心は、届かなければそれこそただの「無関心」ですが、そう受け取られるのだとしても。
心が揺らぐ時、足下がグラグラして立っているのさえ辛い時、ほんの僅かなひとときでも身を預けられるものがある。
「かけがえのない」ことです。
私にとって、彼らの「作品」がその一つであるのは紛れもない事実です。
私は我ながら呆れるくらいに「強がりの弱虫」なところもあり、決していつも毅然と居られるわけではありませんが…
また揺らいだ時に、ちゃんと律して戻ってこられる場所として、ここに書き記すことにしました。