伝えること 伝わること その先に巡るもの 

 永瀬廉さんが自身のお誕生日にInstagramのアカウントを開設してました。

25歳にしてなんと懐の深い人なんやろうと心が震えたし、自らを省みる機会をもらったようにも感じました。

「誕生日は周りに感謝する日」とはよく言われますが。

廉さんは、決してそれを仰々しく声高に発したわけではない。

さりげなく、それでいて確実に、温もりを保って伝わるように体現する。

なかなかできることではないと思うんです。

少なくとも私は…年齢を重ねてきたのにできていません。

 

 何気ない、飾り気のないストーリーズも投稿も。

心を緩めてくれたり、笑わせてくれたり。

純粋に何も深く考えずに面白がっているのか、それとも、彼の広げている地図が大きすぎて周りは知らぬ間にその上で弄ばれているのか。

どちらにせよ、多彩で捉えどころのない、魅惑的な人です*

 

 話は変わって。

この頃「伝え方」「伝わり方」ってつくづく奥が深いよなと感じます。

King & Princeに魅せられてSNSに触れる機会が増えたのもあり、ブログを始めて言葉について思いを巡らすことが増えたのもあり。

 たとえば「良い天気ですね」と発言があったとして、「社交辞令でつまらない」と思う人もいれば、「この瞬間を共有できて嬉しい」と思う人もいれば、「何か話しかけなきゃと気を使わせたかな」と思う人もいる。

そして思ったことをそのまま口に出す人もいれば、出さずに黙る人もいて、するりと話題を変える人もいる。

伝えたかったことが正しく伝わったのか、言葉は届いたけど伝わらなかったのか、受け取りを拒否されてしまうのか。

積み重ねてきた関係性や表情や声の温度が「伝わる助け」になるけれど、文字だけだと助けてくれるものはなくて。

正しく伝わらない可能性も拒絶されてしまうリスクも高まる。

会ったことのない相手なら尚更。

 それは言葉に限ったことじゃない。写真でもイラストでも、同じこと。

リスク管理面からいえば、何も発信しない、できる限り他人と関わらない、も有効な選択肢。でも実際そんなことはできないし、それじゃあまりにも虚しいと思うんです。

だから私は、そこを弁えて責任を持って発信できる人間でいるよう肝に銘じます。

加えて、受信側としても、純粋に感じたままを大切にしながら「リスクを負って届けてくれている」その事実を意識の片隅に置いておこうと思います。

 

 ほんまに余計なお世話で、ここに書いても伝わることはないのですが。

廉さんも海人さんも、やらないという選択肢もある中でInstagramをやってくれている。

表に出るお仕事だから、リスクは重々理解して管理もなさっているでしょう。

でもどうか、くれぐれもご自身を何より一番大切になさってください。

遠くからでも透けて見えるほど思いやりのあるお二人で、キンプリチーム。

だからこそ、おかしな言葉になりますが「ご自身に向く思いやり」もあって然るべきです。

「らしい・らしくない」は後から結果として自ずと残っていけば良いと老婆心ながら思います。

 

そうだよなだから「誰か」か

 「二十九、三十」というクリープハイプさんの曲を、キンプリの二人が歌っていました。

NHK の『プレミセ』という番組の中で。

心を揺さぶられた、も、心に響いた、も、表現としてちょっと違うように感じるのですが。すごく近くで鐘を突かれたような、そんな感じです。

振動がどーんと来て、最初は衝撃が大きいように感じるけれど、でも心地良くて、余韻に浸っていたい。もう音が消えて空気も震えてないけど、体の中ではずっと響いてる。そんな感じ。

 まず歌詞の持つ力が大きいですね。私は29、30からはだいぶ離れてしまったけれど、

余韻の中で、久しぶりに泣きました。

 

誰かがきっと見てるから

誰でもない誰かが言った

もうあんたでいいから見ててよ

そうだよなだから「誰か」か

 

現実を見て項垂れる

理想を聞いて呆れかえる

何と無く残ってみたものの

やっぱりもう居場所はない

 

心の中では漠然と抱えているけれど

実際には言えなくて、口に出したらそれを受け入れる以外の術がなくなるようで、

気づかないふりをしてきた事ごと。

「ふり」が出来るのが大人だなんて、当たり障りのない都合が良いだけの解釈。

そうだよな?そうだよね。。。

そんなふうに思わせてもらいました。

 伝える気が全くなさそうな文章…伝わりませんね。笑

でも誤解を恐れずに言うと、「全員に同じように伝わらなくてもいいよ」とすら思わせてくれる、そんな度量の大きな歌詞だと感じました。

 

 クリープハイプ、聞いたことはありましたが、聴いたことはありませんでした。

「ロック」というジャンルがなんとなく苦手というか。

正確には「ロック」の概念もよく分かっていないのに、ただの毛嫌いですよね。

というわけで、尾崎世界観さんの書く歌詞をちゃんと読んだこともなかったです。

それで今回、他のも読んでみて、曲もいくつか聴いてみました。

 なんと言えば良いのか。おこがましいのを承知で言うと。

良い意味で、印象が定まらない。

定まらないことがかえって印象的。

まっすぐだけどひねくれている。

浅いような、かと思えば深い。

やさしいと思ったけれどすり抜けていく。

留めおきたい、一方で離れてほしくもあって。

 

 おこがましい続きで言えば。

海人さんが「神」って言ってるの、納得しました。

「神」と捉えたではなくて、「海人さんが敬愛する」その事実にとても納得できました。

海人さんの書く文章や言葉の選び方に、どことなく通ずるものがあるように感じます。

まっすぐ簡潔だけど、溢れるものがある。

伝えたいことがあるからこそ、装飾を削ぎ落として色も塗らずに。

数多の推敲の跡や思いやりが透けて見えるような、ただひとつ。

 

 色々と広げすぎて、収めどころを見失いましたが。

King & Princeの、永瀬廉さんと髙橋海人さんの歌う「二十九、三十」がとてつもなく良くて、心が掴まれて、そして満たされたこと。

「誰でもない誰か」だけど、私はきっと見ていようと思います。

人の心が、年の初めに届く国

 人の心が、年の初めに届く国。

もうだいぶ前の郵便局 年賀状のキャッチコピーです。

これ、すごく好きです。当時も良いなと思っていましたが、今も好きです。

年賀状という文化も好ましい。

ですが、世間の潮流なのか、私の心持ちの問題なのか…

厚く重い雲が垂れ込めた冬空のような、そんな感情が同居するようになって久しいです。

 

 かく言う私も、近頃は出す枚数がかなり少なくなりました。

こちらが出す枚数が少ないから、届く枚数も少ないけれど。

それでも嬉しいんですよね。ポストに年賀状が届いているの。DMみたいなものでも。

手書きの文字が一言でもあれば尚更、心が温かくなります。

昔から年賀状に限らず手紙を書くのが好きでした。物理的に手に触れるのが嬉しかったんだと思います。

それなら相手がどう思っていようがやめずに、私は出し続ければ良いとの考え方もあるでしょう。でもそれが出来ないのが、私の度量の狭さというかなんと言うか…

 

 そもそも。

私はアラフォーですが独身で。そんなに交友関係が広い方でもありません。

仕事は嫌いではないというよりか、仕事ぐらいはやりがい持ってしっかり努めなきゃと思っている人間です。

年齢的に、周りの友人知人にはほぼ家庭があって。

「結婚しました」「家族が増えました」と報告できることが毎年たくさんある。

意地っ張りに聞こえてしまうでしょうが、その報告自体は私にとっても喜ばしいもので、知らせて欲しくないとは全く思わないんです。

けれども、一方の私は毎年「変わらず元気です」くらいしか報告できることがなくて。その事実よりも、毎年定型文みたいな年賀状を受け取らせるのが心苦しくなりました。

おかしな言い方ですが、ある時から「釣り合わなくて不甲斐ない」と感じています。

 

 矛盾しているのですが。

それでも私は、人との繋がりは大切にしたいと思っていて。

色々と思いを巡らせ、今年は「スマートねんが」を使ってみました。

「新しい感じだね!」って返事をくれる人もいて、紙の年賀状みたいなタイムラグがなくて、これはこれで良いかもと思う一方で。

ただこれ、そもそも送れない(受け取らない設定になっている)人もいるし、こちらから送れても開けない(開かない)人もいるんですね。年始のLINEがいっぱい来る中で埋もれてしまうこともあるのかもしれません。

それに年始はみんな忙しいから、ゆっくりご挨拶を交わしている時間的ゆとりもないのかもしれないですね。

そして今年は元日から大きな地震で「あけましておめでとう」と言うのを躊躇う部分も少なからずあったでしょうし。

なんだか例年とは違う意味も加わり、心の重たい年賀状事情でした。

 

 年賀状に限らず、人の数だけ考え方があるから、正解も不正解もなく最適解もなかなか見つけようがない。

「人の心が、年の初めに届く国」ってこんなに難しいものだったっけ…

ただ晴れやかに、まっすぐに、心を届ける術、どなたかご教示ください。

 

 

2024年 年のはじめに思うこと

今週のお題「2024年にやりたいこと」

 

 2024年になりました。

「いつも通り」の環境が、本当は「有難い」ものだと再認識せずにはいられない、そんな幕開けですね。

 

 前回のブログを書いてからが、職業柄一年で最たる繁忙期でした。

仕事が忙しく、プライベートの時間的余裕がないので、自ずとSNSからは離れて過ごしていました。

それでも、ふとした時に目に留まる、鋭い刃物のような一方で鈍器のような言葉の数々…字面を見ると凶器だとしても、そこに愛や心がないわけではない。それも頭では分かります。

私がくよくよしてもどうにもならないのに、心はざわめいていました。

King & Princeのお二人や、その周りにいらっしゃるキンプリ チームの皆さま、関係者の方々…どうかどうか自分の心身を守る自衛の手段をちゃんと持っていらっしゃいますように、そう祈るだけの日々でした。

 

 2023年大晦日

仕事から帰って「#KPとおおみそか_ふりかえる」を見ました。

たくさん笑ったし、時々思わぬ方向に展開する話についていけなくなったり、ほのぼのした気持ちにもなって。

1年前はキンプリに興味もなかった私が言うのは憚られますが…

King & Princeに出会えた2023年、ほんまに豊かな時間をもらったなと思えました。

そして改めて感じたのは。

髙橋海人さん、永瀬廉さん。

お二人とも、一人の人として、思慮深くて思いやりに溢れているなということでした。

 また前回の話に戻ってしまいますが、アイドル、俳優、アーティスト、作り手、社会人…肩書きはその時々でいくつもあるんだと思います。

どの角度から見るかによって受け取る肩書きは違うし、どの肩書きにおいても私が見ることができるのは、長い長い過程の中のほんのひと匙。

ともすれば、その肩書きだって、本人の意向とは異なる(受け取る側が勝手に設定した)ものということもあり得るでしょう。

 ですが。

いかなる時も、根底には髙橋海人さん、永瀬廉さん、という一個人が存在していて。

その根底であり心根が、思慮深くて思いやりに溢れている。

そう感じます。

私が彼らに「感服する」理由も、キンプリチームが素晴らしいチームである理由も、一番奥の深いところまで探求したらそういうことなのかもなと思わされました。

もちろんこれも私の感覚でしかないので、それこそご本人たちの意向とは異なるのかもしれませんが…悪しからず。

 色んなことがあるでしょう。

それでも私は誇りを持って、King & Princeを、髙橋海人さんを、永瀬廉さんを、変わらず応援しようと思います。

心を寄せつつも時には「愛ある無関心」で、そして時には凶器ではない「言の葉」を使って。

 

 葉は風に舞って飛ばされて、行きたいところへ直接届くことはないのでしょうが、どこかへ落ちてやがて土になる。

どこかで誰かが根を張り、枝を伸ばしたり、花を咲かせたり。そのための土。

そんな「言の葉」であれたなら嬉しいです。

愛の反対は無関心というけれど

 ショックでした。驚きで息が止まるとはこういうことか。

そして私もショックを受けるんだという事実にまたショックを受けました。気づけばこんなにのめり込んでいるんだなと。

でも同時にその事実が何だか嬉しく誇らしくも感じられました。

 

 どんなことにだって様々な意見があって然るべきです。

とはいえ。

怖さを感じる、目を覆いたくなる言葉が溢れている、言葉が凶器にも暴力にもなる、そんな状況が存在するんだと知ると、何ともやりきれない気持ちです。

「温かく見守ってください」「静かに見守っていただけると幸いです」は、こういう時の常套句のように感じていたけど、実際それが最適で、周りができ得る全てなのかなと感じます。

 

 世間に名前も顔も知られていて、そんな環境に身を置いて礎にして、生業としている人たち。

お芝居でも音楽でも作品でも。何かを創造するために自身の想像力を最大限に使っている方々。

自分自身の意見や感覚とは別のところにある、作品上求められる「もの」のために身も心も尽くして、時には神経をすり減らして。

実際の作品として出来上がった、目に見えて触れて感じられるものは、ほんの一握り。一握りどころか、ほんのひと匙かもしれない。

水面下や過程でどう足掻いてきたか、どんなふうに推し量ったか、どれだけのことを考えて慮って、何を選んで何を捨てたか。

どう魅せたかったのか。そのためにどんな手段を使って、何を発信して、あえて見せずにおいたところがどれほどあるか。

 どれだけ思いを巡らせても、同じ経験をしていない私に到底窺い知れるものではありません。

そんな容易に分かったつもりになってもいけないと思います。

 

 愛の反対は無関心。

SNSには愛のあるコメントもたくさんあって、彼らの人徳の為せる業なんだと本当に感服します。

でも。

「愛ある無関心」もあっても良いかなと思います。

関心を無くすではなくて、あえて関心を好奇の目を向けない。

当人が「魅せずにおく」部分は「見ないでおく」。

私は言葉の力を信じたい質ですが…言葉の力を上手く正しく使える自信が、今は全くありません。

愛ある無関心は、届かなければそれこそただの「無関心」ですが、そう受け取られるのだとしても。

 心が揺らぐ時、足下がグラグラして立っているのさえ辛い時、ほんの僅かなひとときでも身を預けられるものがある。

「かけがえのない」ことです。

私にとって、彼らの「作品」がその一つであるのは紛れもない事実です。

 

 私は我ながら呆れるくらいに「強がりの弱虫」なところもあり、決していつも毅然と居られるわけではありませんが…

また揺らいだ時に、ちゃんと律して戻ってこられる場所として、ここに書き記すことにしました。

言葉の力と、それだけでは語れないもの。

 前回、少しだけ触れたのですが。

今年、King & Princeに魅せられて久しぶりにCDを買いました。

その中で、好きな歌詞や心に響く歌詞にもたくさん出会いました。とても心満たされる時間でした。

 

 ただ今回は前向きな話だけではありません。

11月に発売された「愛し生きること/MAGIC WORD」。

発売よりも前からサイトでLyricsが公開されていました。

「愛し生きること」を初めて読んだ時、すごく冷たい印象を受けました。

金属に触れた時のような、たやすく触れることを許してくれないようなそんな冷たさ。正直「愛し生きること」というタイトルと上手く繋げられませんでした。

歌詞の中に

皆それぞれが持ち寄った鏡の中を

ほら 何度も何度も反射して映った姿

本当は傷ついた背中 悟られないように

笑っていたのかな

というのがあります。

ここ、字面だけ目にした時、鋭利な物でスッと撫でるように切られた、そんな印象を受けました。

ちょうど当時の私は、自身の立ち居振る舞いに迷いがあって心が揺らいでいました。

だから余計に、必要以上に冷たく受け取ったのかもしれません。

「自身の姿を見失って、弱さがバレないように作り笑いをしている」のを見抜かれたように感じました。

これをキンプリが歌うのか、聴くの怖いな、とさえ思っていました。

 

 ですが。

実際に楽曲を聴いて、最初の印象が良い意味で覆りました。

冷たくないさ孤独の雨も

という歌詞を読んでも、あんなに冷たく感じていたのに。

海人さんと廉さんの声で歌われるのを一曲を通して聴いて、

自分にも体温があるのを思い出して、ほっとして心がほぐれるのを感じました。

撫でるように切られた、と感じた歌詞が

「何度反射していても本来の姿は一つ。精一杯努めて笑っていることを知っている。それが分かるくらいの距離に人がいる。だから大丈夫」

とやわらかく包み込んでくれたように感じました。

変わり身の早さに我ながら呆れる部分もありますが…

 「声」の力って大きいんですね。

そんなの分かっていたことのはずですが、今回改めて切実に感じました。

私は「言葉」の力を頼りにしている方だと思いますし、書かれた「ことのは」で救われた経験もたくさんあります。言葉の選び方が素敵な人に興味を惹かれることも多いです。

それでも、その「言の葉」を誰が発するか。どんなふうに届けようとしてくれるか。

それもまた大切な要素です。勝手に変なフィルターを掛けないように気をつけねばと思わされました。

 

 そして最後に話は逸れて一つ疑問が。

作詞家作曲家の方々は、楽曲を提供なさる時に「誰が歌うのか」「どんな声なのか」「それが聞き手にどう届くのか」を全て見越していらっしゃるんでしょうか。

私みたいな身勝手な解釈をするのは特殊かもしれませんが、

でも歌う人によって聞こえ方が変わるというのはありうるよな、と。

その辺りも踏まえて十人十色の解釈で良いということなのでしょうか。

それとも、その辺りからプロモーションから何から何まで全部が戦略的に組み立てられて、「作品」として成り立つ色をゴールに設定しているのか。

それならそれこそ、「King & Princeチームの力、恐るべし」ですよね。

2023年 出逢えて誇らしい気持ちをくれた人

 King&Princeの髙橋海人さん。

同じような体験について書いてる人を各種SNSでほんまによく見かけるので、私もそんな大衆の中のたった1人でしかないのですが、自身の感動を文字に残しておこうと思います。

 

 恥を忍んで、失礼を承知で言うと。

去年までの私はキンプリに関心がなかった。

平野紫耀くんと永瀬廉くんの名前は知ってた。でもキンプリに他に誰がいるのか興味もなくて。

3人の脱退が大きくニュースになったのは知ってたけど…「こんなに大騒ぎするくらい、人気のあるグループやったんや」「残る方が少数派なんて大変やろうなぁ」

と、遠いよその国の話みたいに。

 

 そこから時は進んで。

『だが、情熱はある』で若林さんの役を演じていた海人さん。

「この子、声だけ聞いたら若林さんそのもの!普段から似た喋り方なんかな?」「目の印象が強く残る人やな。」「King&Princeの子なんや!」

そして何気なく「髙橋海人」さんを検索して。

文字通り、度肝を抜かれました。

驚くでも目を疑うでもなく。そんなレベルでは済まないくらい。

「度肝を抜かれる」経験なんて…記憶にある限り人生になかったかもしれません。

そこからの展開はもう…ご想像通り。

 

 ですが私は最初のうち、自分で踏み出したのに、その展開のスピード感が怖くてたまらなかったんです。

私は「のめり込む」という経験が乏しいまま大人になってしまいました。

ほんまに呆れるくらいに熱しにくく冷めにくい、遅咲きタイプ。

知らなかった自分の姿にとことん困惑しつつ、それでもKing&Prince の多彩で多才で多面的で多層的な魅力にどんどん惹かれて。心洗われる日々でもあった。

いつしか気持ちのバランスが取れて、心が豊かにしなやかになったことに気づきました。

 

 海人さんや廉さん、King&Princeチームの方々からすれば、古くからずっと応援してくれるファンほど有難いものはないだろうと容易に想像できます。新参者が良いとは思いません。

けれど私自身にとっては、2人の新体制になった今年、このタイミングで(一方的にですが)巡り逢えて、誇らしい縁をもらったなと感じています。

今年一番といっても過言でないくらい幸運な出来事です*

 

 髙橋海人さんを通じてKing&Prince に出会って、過去の映像も見ました。そしてかなり久しぶりにCDを買って、ずっと本当にずっと彼らの音楽に触れる日々を過ごしています。

その中で人が歌い発する「ことばの力」についてや、その他にも様々なことを考えるきっかけをもらいました。

ですが、その話はまた今度にします。

 

 最後に。

私にとっては、「海人さん」「廉さん」という呼び方がしっくりくる気がしています。

一回りも年下で「さん」と呼びたくなる人はこれまで周りにはいなかったし、何故なのか上手く説明する術を持たないのですが。

微笑ましく思うことも声をあげて笑ってしまうこともあるけれど、お二人を見ていると「感服」という言葉が自然と浮かびます。

私がまだKing&Princeをよく知らないから距離があるというよりは。

未知の素晴らしい世界を見せて教えてくれるお二人に、大きな尊敬の念と出来得る限りの感謝を込める。その結果が「海人さん」「廉さん」なのかなと自分では解釈しています。